「卒論を書くこと」についての一考察
卒論の時期である。
なに、クリスマス?バカもん。
こちとら他宗教のドンの誕生日祝ってる場合じゃねーんだよ。
今までさぼってきたツケってやつが如実に具象化し始めてるんだよ。
ケツに火がついてボーボー燃え盛ってるんだよ。
できることならこの火でチキンでも焼きたいところだけどね!(アメリカンジョーク風に)
冗談はさておき、こんな締め切り直前の焦燥感しか原動力に出来ないようなタスク管理という概念が死滅した自分でも、卒論に対して思うところがある。
始めに言っておきたいのだが、多くの場合卒論なんてのはアカデミックな見地から見て箸にも棒にも引っかからない有象無象である。
そりゃそーよ、高3の2月を頂点として4年間かけてじっくりコトコト脳みそを腐らせてきたわれら大学生(このあいだ何の気なしに都立高校入試の問題/社会を解いたら70点でした。多分センターは6割とれません。殺してくれ。)が、今更難しい顔して2週間足らずで書いた論文にどんな学問的意義が?小学生の自由作文のほうが意外性があって面白い。奴ら時系列を無視するというプルーストみたいな高度な技術を駆使するからな。
そう、4年間惰眠を貪ってきたわれわれに、「アカデミックに洗練された論文」など書けるはずもないのである。
では、卒論など書かないほうが良いのか?執筆を頭のいいカレシ・カノジョ・センパイ・コウハイに無料でアウトソーシングしてる紳士淑女のほうがより良い時間の使い方をしているのか?
答えは、NOである。…ん、YE…?いや、断じてNOである。汗
まず問おう。大学とはそもそも何をする場なのか?サークル?恋?鬱になる体験?それはすべて枝葉末節である。枝葉末節の領域をこれでもかと肥大化させ、幹に挿げ替えてしまったのが日本の大学である。そりゃ腐るわ。
敢えて断定しよう。大学本来の目的は、「自分自身の知を涵養する」ということである。与えられた知識にぶつくさ文句を垂れるくらいなら自分自身で知を求めに行きなさいっちゅーの。少なくともあんたが文学部なら大学敷設の図書館に人生変えるくらいの良質な知はたくさんある。
偉そうなこと言いました。殴ってください。
まあとにもかくにも、大学が自らの知を深めていく場だとしたら、その集大成として卒論を書かずして、大学に通っていた意義はあるのかと。お前マジで400万以上かけてモラトリアム買ったのかと。それでいいんだったらいいけどさ。
たとえ体のいい自慰行為にすぎずとも、「自分の知を形にした」っていう経験って、けっこう大事なんじゃないかと思うんですよね。それがたとえ教授に鼻で笑われるようなものであったとしてもね。
ていうか鼻で笑われて当然の知しか自分は探究できなかったんだなーという事実をしっかり受け止めることが大事というかね。
てなわけで、自分自身の締めくくりとして卒論を書くということは結構的を射ているんじゃないかと思うわけです。
そして、書くからにはこうね、教授の鼻っ柱を少しでも折ってやりたいというか、後頭部スコーンとお見舞いしてやるくらいの、何か爪痕を残してやりたいなーとも思うわけですよ。
というわけで、また地道な読書&執筆に戻るとしましょうかね。