小説が何から何まで体験から作られていたら、そりゃ世界はもっと面白いだろうさ。
たとえば大学の文学の試験でこんな問題が出たとする。
「あなたの実家では今お姉さんが妊娠していてとてもナーバスです。さて、家族の平和を守るためあなたにできることは?」
自分なら、いびつな左脳をフル回転させて倫理的且つ常識的模範解答を絞り出すだろう。youtubeでマタニティブルーによく効くヒーリングミュージックを探して聞かせるとか。そんなのあるかしらんが。ていうか模範解答か、これ?ていうかなんだ、この問題?
まあそんなこんなで、評価はBかCあたりに落ち着くだろう。
さてそんな中、自分が密かに思い馳せているOさん(文学部国文学専攻3年、のち作家に。専攻内の飲み会で知り合って以来懇意だが、思いを打ち明けられずにいる、とする。)はたった一言でトリプルAの評価をもらったという。さて、その答えとは何でしょう。
その答えがこの小説の中にあります。
つべこべ言わず読め。読めばわかるさ。
…
はいはい、どうせおれは凡人ですよ。「試験作成者の意図」とか冷静に読み取って悦に浸っちゃうようなやつですよ。ほっといてくれ。帰ってドキュメンタルの続き見るんだから。
まあ、言いたいのはそんなことじゃなくてですね。
小川洋子さんしかり、他の面白い小説書く作家さんというものは、やはり日常の何でもない体験とそれに付随する細かな感情を広げに広げて物語にしてしまう想像力にエゲツないほど長けているということを痛感せざるを得ないわけでございまして。
よく、フィクションというのは結局のところ日常の体験から構成されるものであって、より豊かな体験をすればより良い小説が書ける、という論旨の意見を耳にしますが。
確かに体験を基にしない小説ってのはないとは思いますが、それにしたって人を感動させるには何か日常を超越した想像力に依る部分が大きいなと思うわけでして。
自分がグランドキャニオンで駆け落ちした恋人と野外SEXした経験をもとにして小説書いたって、小川洋子さんの100分の1も人の胸を打てないと思うわけですよ。
逆に家系ラーメンでご飯お代わりし過ぎて後悔した、みたいなツイートするかも迷うようなくだらない話を彼奴らは芥川賞受賞まで持っていってしまうわけです。
そんなのどう考えたって才能じゃないですか。
そんなのどう考えたって才能じゃないですか(涙目)。
ということで、小川洋子さんはなるべくして作家になったという話。
ところで、想像力ってどう鍛えるの?